はいこんばんはRM307です。今回は村上春樹のエッセイ「村上朝日堂 はいほー!」の感想。
読むのは3回目?エッセイは出版した順に読むつもりだったけど、勘違いでこれを借りてしまった。
まぁでも内容を書かれたのは前回のエッセイとわりと近い時期だったので、結果オーライでした。




わり食う山羊座」では、山羊座の血液型A型の占いがいつも芳しくないという話が書かれていて、
「星占いページの担当ライターは山羊座のA型の悪口を書くのを唯一の楽しみにしてやっている
としか僕には思えない」という部分が面白かった。A型について人々が好意的でないのはわかる。
僕もA型なのだけど、昔からよく几帳面だの神経質だの言われてきて、いつも嫌な思いをしていた。
日本にはあまりにも血液型占い信仰が蔓延している。その所為で僕の中にもすっかり刷り込まれて
しまったように思う。血液型が性格を築いたのでは無く、その信仰がねじ曲げてしまったのだな。

これはもちろん個人的な好みの問題だとは思うが、アーネスト・ヘミングウェイみたいに戦争が起こるたびに外国に飛び出していったり、アフリカの山にのぼったり、カリブ海でおおかじきを釣ったりして、それを小説のネタにするようなやり方はあまり僕の好むところではない。そういうのはテレビの「なんとかスペシャル」と根本的には発想が同じじゃないかと思う。そういう風に物を書いていると、だんだんエスカレートして不自然にネタを求めるようになってくる。
チャンドラー式」から引用。僕はまったく観ていないけど、テレビやYouTuberがやっているのも
こういう事じゃない?より過激なものをと拍車をかける視聴者が多いのも問題なのだろうけど。
僕もこのブログを更新する為に本を読んだり料理を作ったりしているのでとやかく言えないけど、
書く為にネタを仕入れるんじゃなくてネタがあるから書く、というのが本来のかたちだとも思う。

日本長期信用銀行のカルチャー・ショック」では、フィクションとノン・フィクションの二つは
まったく別の作業で、ノン・フィクションは現実をフィクショナイズする事、フィクションは虚構を
現実化する事だと書かれている。ああたしかにそんな感じがする!と目から鱗。僕が今まで
ノン・フィクションだと思っていたものはドキュメンタリーだ。ノン・フィクションとは違うのだな。

しかし我々はあまりにも多くのものを求めたので、与えられるものの多くは結果的に類型に堕することになった。類型としての文化を撃つべきカウンター・カルチャーの類型化がおこなわれた。カウンター=カウンター・カルチャーが起こり、カウンター=カウンター=カウンター・カルチャーまでが起きることになった。
ジム・モリソンのための「ソウル・キッチン」』から引用。たしかにそういう事って多いよね。
僕の「百合少女交響曲♪」だってそうかもしれない。類型化された創作物に過ぎないのだろう。
まぁ僕の創作物はカウンター・カルチャーとか革命とか言えるようなものでは決して無いけど。

落下傘」で、村上さんの奥さんが映画を観るとよく「私にとってのこの映画の教訓はね・・・」
と説明を始め、「最初のうちはまったくなんだこの女はと思っていたのだが」と書かれていたのが
面白かったwでもいつしか村上さんご自身も映画から教訓を学ぶ癖がついてしまったのだというw

ひとり旅」では、一人旅をしている女性と出会った時に話しかけるべきか否か、という話が。
話しかけて相手に鬱陶しく感じられたり下心があると思われたりするのも嫌だし、かといって
話しかけずに「退屈しているのに、小心な男ね」と思われるのも嫌だと書かれているのだけど、
昔はそういう時代だったのかな?現代だったら突然話しかけたりしたらかなり警戒されそうだ。
少なくとも、僕は自分から一人旅をしている人に話しかけようとは思わないな・・・性別問わず。

「無人島に一冊本を持っていくなら何か」という質問に辞書と答えている「無人島の辞書」では、
小説家なら自分で話を書けるから得だ、と書かれている。退屈しのぎに官能小説的な文章を書いて
猿に読ませたりね、なんて書いてあるのだけど、その後外国の辞書を持っていくという話題で
もう一度このくだりが出てきて、今度は「フランス語で」と書かれているのが面白いwユーモア。
あと以前他のエッセイだか作品だかに出てきた「どんな髭剃りにもその哲学がある」という格言、
「どんな些細な事でも毎日続けていればそこにおのずと哲学が生じる」という意味なのだけど、
以前も書いたかもしれないけど僕にとってのFAやFAの紹介文がそれかもしれないな、と思った。
あと、村上さんがひげを剃る順番が僕と同じで嬉しかった。それとも一般的な順番なのかな?

ささやかな時計の死」でそういえば、と思ったのが、昔は時計のねじを巻くのが日常だった事。
ねじ巻きは生活の中にしっかりと食い込んだ日常的行為であり、昔はよく時計と目が合ったという。
たしかに電池式の前は手動だったか・・・。思えば僕の父は古い壁かけ式の大きな時計が好きで、
よくねじを巻いていたな。めちゃくちゃ久しぶりに思い出した。昔は大人も子どももねじを巻く事が
当たり前だったから、時計というものは故障した時ぐらいにしか止まらなかった訳か。でも
電池式になり、ある日突然針が止まるようになってしまった。最初は慣れなかっただろうなぁ。
目覚ましが鳴らずに遅刻してした人も多かったかもしれない。便利だけど、一長一短なのだなぁ。

どうして僕は雑誌の連載が苦手なのかということについて」では、せっかちな村上さんが
食後すぐに食器を片づけてしまうので、奥さんが食事の後くらい一息ついて何か話をしたいと
怒るという話が書かれている。これ、すごく羨ましいなぁ。以前パン屋再襲撃」の感想でも
書いたけど、今まで僕と話をしたいと言われた経験がほとんど無いので。僕も僕と話がしたいと
言われてみたいけど、何も無い空っぽな人間だから無理だろうな・・・。しかも村上さんの場合は
当時結婚して15年以上経つのに、まだそんなに仲が良いんだ!と驚いてしまう。良いなぁ・・・。
うちの両親の間には、子どもを挟んだ時ぐらいにしか会話が無かったような気がするので・・・。
父が母に一方的にモラハラをしていた記憶しか無い。世の中には仲の良い夫婦が居るのだな・・・。

CAN YOU SPEAK ENGRISH?」では、アメリカでフィッツジェラルドがモデルの芝居を見に行った
村上さんが、司会者に「フィッツジェラルドの翻訳をやっている村上さんがおいでになっています」
と紹介され、舞台上であいさつと観客からの質問に答えないといけない事になったエピソードが。
これはキツいなwただでさえ会話にも英会話にも苦手意識があるのに、ややこしい専門的な質問に
答えなくてはいけないなんて・・・!しかし村上さんは結構若い頃から翻訳をされていたんだな。
村上さんは何をしゃべったのか覚えていないらしい。実際どんな事を話したのだろう?気になるな。

『スペースシップ』号の光と影」は美しい流れのエッセイだった。村上さんが手に入れた
かなり古いシンプルなピンボール台、それを仕事終わりに黙々と打っていた時の親密な空気、
そして手放す事になり、ピンボール台が引き取られていく時の物哀しい光景、ずっしりとした重さ。
ちなみに「1973年のピンボール」を書いた後の事らしい。てっきり書く前の事だと思っていたな。

貧乏はどこに行ったのか?」では、たまに会う女の子が口をそろえて「貧乏は絶対に嫌だ」、
「結婚はしたいけど生活レベルは落としたくない」と言うけれど、昔はお金の事よりはまず
納得できる生き方をしたいという方が先にきていたと思うと書かれている。僕はその時代を
知らないけど、今はある程度お金がある事が前提になっている気はするな。まぁ偏見ですけど。


以上、字もそこそこ大きかったし、180ページほどで読みやすくて良かったです。それではまた。