金魚ちゃんの週末インプット★

読んだ本や漫画、観た映画の感想を書いたり作った料理の記録をしたりするブログ。

2019年10月5日 月の影 影の海 下巻 感想

はいこんばんはRM307です。読書回の今週は小野不由美作「月の影 影の海」下巻の感想。
上巻を読み終わった後と連休中に読んでいました。下巻は楽しくてするする読めちゃったな。
上巻の感想:


【あらすじ】
負傷と体力の限界から行き倒れた陽子は、ねずみの姿で人語を解する半獣の楽俊に拾われる。
頭の切れる楽俊から、海客である陽子は雁国へ行く事を勧められ、ともに旅立つ事になった。
しかしまたしても妖魔に襲われる陽子。妖魔を屠るも、傷を負い倒れた楽俊を前に逡巡する。
楽俊は自分が雁国へ行く事を衛士に話さないだろうか、戻ってとどめを刺すべきだろうか、と。
一度は楽俊を見捨てて逃げた陽子だったが、陽子自身が人を信じる事と人が陽子を裏切る事は
関係無いと気づく。ついに蒼猿を退け、雁国に渡った陽子は、そこで楽俊と再会したのだった。

やっぱり楽俊が登場すると心底安心するなぁ。前回も書いたけど僕はアニメから入ったので、
鈴村健一さんのお声を聴くだけで「楽俊だ」と嬉しくなってしまうくらい楽俊が好きだった。
「悪い海客は国を滅ぼすと言われた」と言う陽子に対し、あっさり「迷信だ」と言った時や、
自分が来た蝕の被害が大きかった事に陽子が心を痛めていた時の蝕についての説明、
陽子が楽俊を見捨てて逃げた後に再会した時の「逃げて良かったんだ、捕まったらどうする、
逃げろと言って財布を渡せば良かった」というセリフなど、さらっと言えるのが本当にすごい。
楽俊にしてみれば当たり前の事を言っているだけなのかもしれないけど、こちらまで救われる。
たぶん同情される訳では無く、当たり前のように言ってくれるのがとてもありがたいのだよな。
「おいらは陽子に信じてもらいたかった。だから信じてもらえりゃ嬉しいし、信じてもらえなかったら寂しい。それはおいらの問題。おいらを信じるのも信じないのも陽子の勝手だ。」
このセリフもすごいなぁ。漫画やらブログやら絵板やらでも書いたけど、僕は「自分の言葉が
相手に届かない」と悩む事が多い。今でも。どうしたら楽俊みたいに考える事ができるだろう。
相手に直接伝えはしないけど、僕はやっぱり信じて欲しいと願ってしまう事が多いなぁ・・・。
相手の自由を尊重できていない。まぁ落ち込んでしまうのも仕方が無いと言えばそうなんだけど。
だってしょうがないよ、相手が好きなんだもの。そうやって開き直るのは良くない事だろうか?
「お人好しなんだ、楽俊は」
「そうかもな。だとしても陽子を見捨てて危険じゃないところにいるより、陽子といっしょに危険なところに行くほうが自分にとって値打ちのあることだと思ったんだ」
「まさか、こんなに危険だと思ってなかったでしょう?」
「だとしたら、おいらの見込みが甘かったんだ。それはおいらのせいで陽子のせいじゃねえ」
このやりとりも素晴らしい。僕だったら後悔したり、相手を恨めしく思ったりしてしまうかも。
七年前、僕という重くて厄介な存在を抱え込む事になってしまったつばき先生に謝罪した時、
つばき先生が「仕方の無かった事だと思う。ネガティブな意味じゃなくてね」と仰っていた。
何だかその時の事を思い出してしまった。僕もまた、つばき先生の優しさに救われていたのだ。

半獣を嫌悪する塙王の所為で働く事が許されず、高等教育機関にも通えなかったのにも関わらず、
「主上は悪い王じゃないけど少しばかり好き嫌いが激しい」と無下に批判しないのもすごい。
言葉の端々からも感じられるけど、やっぱり巧国が好きだったのだなぁ。貧しいし、職にも
就けないけどずっと住み続けていた訳だし。塙麟が失道と聞いた時も相当ショックを受けていた。
僕は日本に住み続けているけど、決してこの国を愛してはいないかもなぁ。言葉さえ通じれば、
どこへ行ったって良いと思っている。日本に住む事を選択しているというより、ただの妥協だ。

話を戻そう。楽俊の元に戻ろうとして、陽子が「楽俊を殺さなくて良かった」と涙するシーン、
「月の影 影の海」の最大の名場面ですね。アニメでは毎回ここでぽろぽろ泣いてしまう。
裏切られても良い、裏切った相手が卑怯になるだけ、裏切って卑怯者になるよりずっと良い。
ずっと前に、母とこの話の録画を観ながらごはんを食べていた事があった。当時母は職場の
人間関係で悩んでいて、そんな時にこのセリフを聞いて気持ちが楽になったと言っていたな。
ひとりでひとりで、この広い世界にたったひとりで、助けてくれる人も慰めてくれる人も、誰ひとりとしていなくても。それでも陽子が他者を信じず卑怯にふる舞い、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。
この部分の「ひとり」の繰り返しも良いなぁ。読んでいて、孤独が伝わって泣きそうになった。

文章でいうと、8ページの「村人か、獣か、妖魔か。いずれにしても選択肢が増えるだけで、
結果が増えるわけではない」や、236ページの「自分を卑下して満足してるんじゃない」が好き。
後者は、子どもの頃に観て「そうか!僕がやっているのもただ卑下して満足しているだけだ!」
とはっとした事があったな。あと七年半前にもはてなダイアリーの記事で一度使った事がある。
それと「畢竟」という言葉はこの作品で知って、当時意味がわからず辞書を引いた思い出が。

意味がわからないといえば、楽俊が陽子に子どもが宿る木「里木」を見せに行ったシーンで、
陽子はうなずき、ふとした疑問を感じたが、あまりにはしたない質問なので訊ねるのは思いとどまった。遊郭があったりするのだから、まぁそういうことなのだろう。
この部分がどういう事なのか、初めて読んだ子どもの頃はわかっていなかったなwと思い出した。

もう何度も親しんだ作品なので、この後のストーリーに関しては今さら語る事は出てこないかな。
なのであらすじも途中までにしました。面白い作品なのでぜひ読んでいただけると嬉しいです。

以上、とても面白かったです。楽俊が登場して得られるカタルシスは、他のどの作品と比べても
比較にならないほど大きくて、十二国記シリーズでも一番好きな巻かもしれない。それではまた。

2019年9月14日 月の影 影の海 上巻 感想

はいこんばんはRM307です。読書回の今週は小野不由美作「月の影 影の海」上巻の感想。
有名な「十二国記」シリーズの最初の話です・・・と思ったんだけど、正確には「魔性の子」が
最初だったな・・・と読んでから気づいた。まぁ良いか。そちらも後々読む事になると思うし。
読むのはもう5、6回目かも。前回読み返したのは七年前?つばき先生とこの作品の話で
盛り上がったのがキッカケだった。アニメもかなり観返したので、内容はほとんど覚えている。
でも今年最新刊が出るので読み返そう!と以前から思っていたのだけど、元気が無いと
キツそうだったのでなかなか読めなかった。5月以降はずっとメンタルの調子が悪かったので。

【あらすじ】
日本の女子高生中嶋陽子は、少し前から異形の獣がどんどん近づいてくる悪夢にうなされていた。
それでも平凡で、しかし窮屈な日常を送っていた彼女だったが、ある日学校に見知らぬ男が現れる。
彼は陽子に探した、陽子が自分の主だと言う。そして、危機が迫っているので自分といっしょに
きて欲しいと言う。抵抗する陽子だったが、突然襲撃に遭う。それは夢でみた異形の獣だった。
男から渡された剣と身体に取りついたバケモノによって異形の獣を斬り伏せた彼女だったが、
身の安全の為に彼とともに別世界へと旅立つ事になる。しかし追手に襲われ男と離れ離れになり、
陽子はたった一人で見知らぬ世界をさまよう。その男に再会して、元の世界に、自分の家に帰る。
その一心で旅をする陽子だったが、妖魔には襲われ、役人には追われ、人々には裏切られ続ける。
こちらには味方が居ない。でも帰っても自分の居場所は無い。陽子は心身ともに疲弊していく。


子どもの頃から親しみ、もはや身体の一部のようになっている作品なので、あまり書く事が無い。
とりあえず、もう二度と自分の家へ帰れないのはつらすぎるな・・・と思った。僕は自分の家が
大好きで、お仕事中も外出中もとにかく早く家に帰りたいとばかり考えている人間なので・・・。
もちろん好きな人々、猫たちと別れないといけないのも苦しい。現実世界で好きな存在といえば
母と飼っている猫ぐらいしか居ないけど、ネット上の好きな人々とは絶対に離れたくない・・・。
もし蝕に巻き込まれて海客として十二国に行ったとしても、インターネットはできて欲しい(?)。

同じ海客として日本からやってきた松山誠三というおじいさんも、あと半月で第二次世界大戦が
終わったのに、自分は言葉も習慣もわからないこの世界に放り込まれ、二度と故郷へは戻れず、
家族も居ない、何十年もたった一人で生きてきた・・・。つらすぎるな・・・としか言えない。
僕も将来的には独りぼっちになるだろうけど、まだ安心して暮らせる世界には居るからな・・・。
このおじいさんが陽子を裏切った時もつらかったけど、でも誰にも責められないような気もする。

僕はこの作品はアニメから入ったのだけど、アニメではずっと翻弄されていた印象だった陽子が
原作では計算して動いていたりしてちょっと驚いた。たとえば最初に巧国で役人に捕らえられ、
馬車で護送されていた時、剣の場所を確認する為にそれとなく役人にたしかめさせたところとか。
アニメではこの時ずっと泣いていた印象だったものな。浅野君と杉本さんが居たからだろうけど。
その後妖魔に襲われてその男が殺され、その身体の下を探って剣を引き抜くシーン、つらい・・・!
死体なんて見るだけでも相当キツいのに、陽子は人間の死体を見るのはその時が初めて、
しかもそれは妖魔に食い散らかされた肉の塊となった死体で・・・。一生トラウマになるよ・・・。

ただひたすら帰りたいと願う陽子。剣の見せる幻で、泣いているお母さんを見て絶対に帰ると言う
彼女に、蒼猿は「たとえ子どもがお前じゃなくても、もっと最低の子どもでも母親は悲しむ、
そういう生き物だから。情が移っているだけ」と嘲笑う。子どもの頃にこのシーンを観た時は、
そうなのか!親は必ずしも子どもを愛している訳では無いのか!情が移るだけなんだ!と思った。
それ以来、幼い僕の中で「親は僕が僕だから好きでいてくれている訳では無い、情が移っただけ」
という考えはしっかり根づいてしまい、その後あらゆる場面でその言葉を思い出す事になった。
そして僕の父親もそうなんだろうな、それならあの父親の態度にも納得がいく、と思っていた。
もちろん実際にはそんな事は無く、子どもを愛してる親だってきっとたくさん居るんだけどね。

あと以前も書いたけど、世間には夫がお風呂に入る際に妻が着替えを用意する家庭があるらしく、
陽子の両親もそのうちの一つだった。以前どこかで知ったような気がしていたのはここだったか!
陽子のお父さんは陽子がジーンズを履こうとした時に「女の子らしくない格好はみっともない」とか
「女の子は男の子に競争で勝たなくて良い」とか平然と言ってのけていて、当時子どもながらに
うわぁ・・・古い・・・と思っていたなぁ。現実にもこういう男は居たりするのだろうか・・・。
この作品が書かれたのは1992年だけど、当時でも古い価値観だったんじゃないかなぁ。たぶん。


以上、実はここでやめるのがつらくて楽俊に会いに下巻も読み始めたのだけど、今回は上巻だけ。
上巻はひたすら救いが無いけど、そんなところもどこか心地良かったりしました。それではまた。

2019年8月24日 村上朝日堂はいかにして鍛えられたか 感想

はいこんばんはRM307です。今回は村上春樹のエッセイ「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」。
読むのは4回目ぐらい。五年ぶりのはずだけど、かなり内容を覚えていた。もっと最近読んだっけ?
過去のツイートやブログを検索しても該当するものは無かった。それぐらい好きだったという事かな?



今年読んだエッセイの中では一番面白かったように思う。文章も文量もすごくちょうど良かった。
もし誰かに村上さんのエッセイを勧めるなら、最初はこの一冊にしたいと思った。おすすめです。


もう十年も前のことだけど」の、筑紫哲也に似ているホームレスの人を見た話を何の気無しに
雑誌の担当者に話したら、週刊誌のグラビアにその人の写真が掲載されてしまった話にびっくり。
25年前の事だけど、この頃ってプライバシー無かったんだ!ひどい話もあったものだな・・・。
それとも相手に許可を取ったのだろうか?エッセイ内でそんなふうには書かれていなかったけど。
そうは思えないなぁ。僕も相当ひどい人間だけど、週刊誌の編集者なんて特にろくでもないしね。

ボートはボート」では、野球観戦中の村上さんが同じファンの友人に悪口を言うのが面白い。
ひどいけど。「ムッ(○○のファンなので悪口を言うとムッとする)」という表現の繰り返しが好き。

体罰について」の、「体罰が熱心さのひとつの方法論として独り歩きを始めた時点から、それは
世間的権威に裏付けされたただの卑小な暴力に変わってしまう」という部分はよく覚えていた。
殴る事で生徒に何か教えた気になっているとしたら、それは間違いだと思う。体罰は指導では無く、
恐怖によって立場が下の者を支配しているだけのような気がする。人間関係ですら無いよね。
以前もこのブログで書いたけど、一般企業で新入社員がミスをしたら殴る上司がどこに居る?
学校だけそれが許されるというのはおかしい。学校を悪い意味での特別な場所にしては駄目だよね。
僕は幸い叩かれたりした事は無かった(中学生の時に胸ぐらをつかまれた事はあった)けど、
小学六年生の担任の先生が、宿題や教科書を忘れた子を立たせて全員の前で豚鼻にさせる、
という罰はあって、それは嫌だったな。特に女子は可哀そうで、必死に抵抗していた子も居た。
それも今の時代なら体罰に入るかもしれないけど、当時は保護者もその罰を受け入れていたな。

安西水丸の秘密の森」の、村上さんをクラブに連れて行った水丸さんが女の子とダンスさせ、
その事が誇張されて広まり幾人からがっかりされた、そしてその噂のルーツは水丸さんだった
という話、嫌だなぁw他のエッセイでも水丸さんが妙な噂を流していたと書かれていたけど、
冗談じゃなくて本当にそうだったんだな・・・。真っ先に七靴君の事を思い出してしまったよ。
そんな水丸さんを許している村上さんはすごい。僕は七靴君を笑って許そうなんて思わないな。
僕は自分がやった事を吹聴されるのはまだ良いけど、自分に関する嘘の話や、誇張した話を
されるのがすごく嫌なのだよな・・・。まぁ誰だってそうだとは思うけど。上手く聞き流せない。
まぁ別にわざわざ出向いて否定して回ったりもしないけどね。ブログでは釈明したりするけど。

趣味としての翻訳」では、翻訳は趣味だっと言いきるしか無い部分がある、と書かれている。
以前僕は「自分の中で漫画は仕事、FAは趣味のつもりで描いている」と言った事があったけど、
最近は逆転しつつある気がする。もちろんFAを仕事のつもりで嫌々描いているという話では無く。
それについてはまだ自分でもはっきりしていない部分があるので、いずれまたどこかで書こう。

ゼロから何かを生み出すという作業がどれくらい手間のかかる辛い作業であるかを僕はいちおう身にしみて知っているから、それを一言で「あいつはゴミだ、これはクソだ」と罵って片づけてしまうことはできない。
テネシー・ウィリアムズはいかにして……」に書かれている批評についての話。なるほどな。
僕自身、自分が大した漫画を描ける訳でも無いくせに堂々と商業の作品を批判する事がある。
先日絵板に書いた「五等分の花嫁」と「ぼくたちは勉強ができない」とか。ただ、言い訳に
聞こえるかもしれないけど、この2作品に関しては、ゼロから生み出していない世界、他作品から
寄せ集めたつぎはぎだらけの服を着せられ、ないがしろにされているキャラが可哀そうだった。
まぁ何を言っても言い訳になりそうだからやめよう。どうもすみません、やっぱり僕が悪いです。

村上新聞社と「〆張鶴」ツアー』では、新潟の村上市にある村上新聞社を訪れた村上さんたち。
「町の新聞」である村上新聞だけど、町が狭すぎるのであまり込み入った話を書く事ができない、
みんなが新聞を取ってくれなくなるかもしれない、広告も出してもらえなくなるかもしれない、
だからなかなか書きたい記事も書けない・・・という話が書かれている。どこも同じなんだな。
大手の新聞社もテレビ局も、結局は購読者や視聴者、スポンサーにそっぽを向かれたくないから、
主な購買層のご機嫌を損ねそうな記事をごまかしたり、スポンサーに忖度した報道をしたりする。
まぁこういう事は別にわざわざ僕が言わなくても、たくさんの人々が指摘しているから良いけど。

傷つかなくなることについて」は、十代の頃何度も読んで「いつか僕も傷つかなくなるように
なれるだろうか」と思っていた。しかしあれから十年が経ち、今も毎日何かしら傷ついている。
だいたいは絵板に書いているので割愛しますが。それでも感受性が摩耗し、昔と比べたら確実に
厚かましくなっているけど。でもこうでもならない限り、僕は生き続けるのは難しかったと思う。
九年前、FAを描き始めた頃の僕の事をもしも好きになってくださった人が居たとしたら、今の僕を
受け入れがたく感じる事も多いかもしれない。嫌いになって離れていった人もきっと多いだろう。
その事を考えると申し訳無く思うし、昔の(まだ)良い子だった自分に戻りたいような気もする。
しかし好むと好まざるとに関わらず、これが今の僕なのだ。悪いけど、どうか許して欲しいと思う。
もちろん今の自分にあぐらをかいている訳でも、今の自分自身を肯定できている訳でも無いけど。

文学全集っていったい何なんだろう」のラストはとても重く印象的だ。ここで簡単に解説できる
ものでも無いので、良ければ読んでみてください。僕も村上さんだったらその話は断るだろうな。
でも相手が自殺したなら、ショックでしばらくは何も書けないかもしれない。自殺では無いけど、
二年前、大好きだった作品が削除された時と同じように。村上さんが生きる世界はシビアだ・・・。

文科系と理科系」の、アメリカの小説に出てきたという「たまたま男性用生殖機能をひとそろい
もって生まれてきたというだけの理由で、どうして車のトランスミッションを修理できると
みなされなくちゃならないんだ」という一文もよく覚えていた。いつか使ってみたいところだ。
僕も若いという理由だけで、アルバイト先でPCに問題が起こった際によく駆り出されていたので。
たしかにPCはよく使っていたけど、エラーやシステムの事を訊かれてもわからないんだよな・・・。

真昼の暗黒の回転鮨」では、お客さんが少ない時間帯は作り置きせず、注文を取ってから握り
皿を流している回転寿司店でのエピソードが面白かった。たしかにこれは緊張しそうだwww
一人で黙々と食べられるのが回転寿司の良いところなのに、これじゃ回らないお寿司と同じだ。
僕は回らないお寿司を食べた事が無いけど、いちいち職人さんに注文しないといけないなんて
ずっと緊張しそうだなぁ。できれば一人で好きなものを適当に取って気楽に食べていたいよ。
ホテルの部屋に戻って机に向かっても、「まだ今でもあそこでは、黒いベルトが何も載せずに『さあ何にする、次は何にする』とつぶやきながらぐるぐる回っているんだな」と想像すると、それだけで緊張して仕事もうまく手につかなかった。
この部分を読んで、先日絵板に書いた工場でアルバイトをしていた時の話の事を思い出した。
僕が言いたかったのもまさにこういう事だったかも。しかし今日はよく絵板の話が出ますね。
そういえば先日くろすけ先生が「15年ぶりに回転寿司に行った」とツイートされていたけど、
僕も最後に回転寿司に行ったのは九年ぐらい前だな。幼なじみといっしょに食べたのが最後だ。
お寿司自体も最後に食べたのは六年前、スーパーのものを祖父といっしょに食べたんだった。
好きなんだけど、高いので自分から買う事はまず無い。どなたか良ければおごってください。

梅竹下ランナーズ・クラブ通信❸」で、100kmマラソンの練習に明け暮れていた村上さんに、
奥さんが「どーして最近うちには夫婦の会話というものがないのかしら」と糾弾した話、これも
以前も何度もこのブログで書いているけど、羨ましいな・・・と思った。僕も結婚して二十年も
経つ相手に「話したい」と言われてみたい。しかし僕と話したい人なんて存在しないのだった。

抜け毛の問題」で、かつら会社の人から、薄毛の人は派手な色のセーターを着られない、
着たら「ハゲのくせに派手なセーターを着て」と影で言われたり、言われているような気がする、
と言われた村上さん。実際には個人の考え方の問題なんだけど、これは僕もすごくよくわかる。
僕は幸いまだ禿げてはいないんだけど、将来的に禿げたらそうなるだろうし、そもそも昔から
「あいつは不細工のくせにおしゃれしやがって」と言われるのが怖くておしゃれができなかった。
無難な、シンプルな服しか着ていない。カッコ良い服とかも着てみたかったんだけどね・・・。
これは被害妄想では無く体験に基づいたものだけど、まぁ別にわざわざ書くような事でも無いか。

かたちのあるものはいつか消える。かたちのないものだって、いつかは消えていく。残るのは記憶だけだ。
マールボロ・マンの孤独」の最後の一文。でも記憶すら残らない事だってたくさんあるよね。
僕は好きな人々には永遠に覚えていてもらいたいと思う。実際は、それは叶わないだろうけど。

ペンネームをつけておくんだったよな、しかし」で、変わった皮膚科の病院のお医者さんから
「さっき取りたての、すごい強烈な水虫の皮膚があるんだけどさ、ちょっと見ていかない」と
言われて顕微鏡で見せてもらった話、面白いなwww相当変わったお医者さんだ。僕も会いたい。

一日ですっかり変わってしまうこともある」、僕の場合は失恋や死別がそうだったな、と思った。
特に去年祖母が亡くなった時など。人の死って、いろいろなものを変えてしまうんだなと思った。
エッセイにも書かれているけど、「愛する異性と心を通わせることで、光の輝きや、風の感触が、
昨日までとはまるで違ったもののように感じられる」という体験もしたいな・・・もう無理かな。

外国語を翻訳する時に悩むという「俺と僕と私」の一人称の問題。日本語だとややこしいですね。
ちなみに、これは初めて書くけど、僕の一人称も家では「私」、職場では「僕」、友人の前では
「俺」と分かれています。個人的には「僕」がしっくりくるので統一したいんだけどねぇ・・・。
今さら変えるのが気恥ずかしい。キャラを変えるのと同じくらい難しい。なのでネットでは気が楽。
ネット上では、最初の頃は「僕」だと目立つので「俺」を使っていました。絶クレスレ★2で、
一回だけ「俺」になっている僕の書き込みがあります。もし暇だったら探してみてください。
あと今は、「RM307」としてや企画の主催として書き込む時以外は「自分」と書く事が多いです。

僕らの世代はそれほどひどい……」では、友人のあだ名だと思い、知らずに被差別部落の
俗称を書いてしまった村上さんの中学時代のエピソードが書かれている。僕も小学六年生の頃、
クラスに内村という女子が居たのだけど、僕がふと思いついて「内村だからうっちーだね」と
言ったら強烈なビンタをされ、「私その呼び方嫌いなんだけど!」と言われた事を思い出した。
それは申し訳無い事をした、と思ってすぐに謝ったのだけど、今思うとビンタするほどの事では
無くない???だって知らなかったんだし・・・と思わないでもない。やれやれ、痛かったなぁ。
僕にとってそれよりももっとショッキングだったのは、この世界では人は誰でも、無自覚のうちに誰かに対する無意識の加害者になりうるのだという、残酷で冷徹な事実だった。僕は今でも一人の作家として、そのことを深く深く怯えている。
この部分も印象的だった。僕もふだんぺらぺらとTwitterでツイートしたりブログを書いたり
しているけれど、もしかしたら僕の言葉で深く傷ついている人も居るのかもしれないな・・・。
一応気をつけているつもりだけど、もし嫌な思いをしている人がいらっしゃったらごめんなさい。
言われないとわからないアホなので、その場合は指摘していただけるとありがたいです・・・。
でも実際はわざわざ教えたりせずに、愛想を尽かして黙って去って行くものなのだろうなぁ。

果たされなかったもの」については、少し長いので来週以降に月ブログの方で書くと思います。


以上、エッセイの中でもかなり読みやすかったし楽しかったので良かったです。それではまた。

2019年8月10日 やがて哀しき外国語 感想

はいこんばんはRM307です。今週の読書回は村上春樹のエッセイ「やがて哀しき外国語」の感想。
読むのはたぶん3回目。村上さんがアメリカに三年住んでいた時のエピソードが書かれています。

やがて哀しき外国語
村上 春樹
講談社
1994-02-18


一年限定で(結果的には一年半に延ばした)アメリカのプリンストンに住む事になった村上さん。
湾岸戦争により愛国的高揚感が、アメリカの不景気からアンチ・ジャパンの機運が高まっていて、
その中に身を置く事は居心地が悪く、周りに棘のようなものを感じて当時は気を張っていたとの事。
それまでのエッセイとは違い、最初の方はまじめでどちらかというと少し暗いテーマを扱っていて、
いつも通りのエッセイのつもりで気楽に読もうとしていた僕はちょっと居住まいを正してしまった。
日本とアメリカの違いも書かれていて、でもだからどちらの国の方が優れているという話では無く、
それぞれの国の抱えている問題や、内包するジレンマについても書かれている。結構難しかった。
僕は頭が悪いのでそれらに対し感想を書く事ができない。今まで通り気になったところだけ書く。

プリンストン――はじめに」で村上さんは「僕はどちらかというと、字を書きながらものを考えて
いく人間である。文字に置き換えて、視覚的に思考する方が楽な事が多い。」と書かれている。
僕自身、頭で考える事がすごく苦手な人間で、文章として書いて初めて考えがまとまる事が多い。
僕が言うのはおこがましいけど、なので村上さんが仰っている事は何となくわかるような気がする。

大学村スノビズムの興亡」では、日本の流行やカルチャーについて「文化的焼き畑農業」とある。
本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動して生きていかなくてはならない。これが文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。
今から三十年前に書かれたものだけど、日本はこの頃から変わっていないんだな・・・と思った。
よっぽど売れている人たちを別にして、商業作家もこうならざるを得ないところがある気がする。
せっかくの才能なのにもったいないよね。日々新しいものを求める消費者も悪いのだろうか・・・。
そういう意味では、好きなだけ自分の創作を追求できるアマチュア作家の方が楽なのかもしれない。
純粋な意味での創作活動。僕が新都社作品に惹かれていたのもそういうところだったりするのかな。

アメリカ版・団塊の世代」の人種問題の、『六十年代のように「法律上の差別が撤廃されて、
人種間の機会均等が実現されれば、何もかもうまく行くんだ」といったオプティミスティックな
見解を単純に信奉しているような人間はもうどこにもいないと言っていいだろう』という部分で、
同性愛者の問題もそうなのかなぁと思った。先日台湾で同性愛者同士の結婚が可能になったけど、
差別が無くなって当たり前のように生きていけるようになるのにはまだ時間がかかるのかな、と。
日本ではまだ結婚すらできないので、本当に彼、彼女らが生きやすくなるのは相当先なのだろう。
やれやれ、21世紀になってもう18年も経つんだぜ、それなのに・・・と思わず首を振ってしまう。

誰がジャズを殺したか」に書かれている、村上さんがレコード屋の前で時間を尋ねられて
「四時十分前だよ」と答えた後に「TEN TO FOUR」というレアなレコードを見つけた話、これは
東京奇譚集」でも書かれていたけど、こちらは買った後に時間を尋ねられて答えたとなっている。
村上さんの記憶違いのようだ。どちらが正解なんだろう?まぁどちらにしてもすごい偶然だけど。

元気な女の人たちについての考察」の、アメリカで奥さんを紹介するのが難しい話も興味深い。
主婦と答えると相手の顔がこわばり、個人的な編集者兼秘書のような仕事をしていると言っても
物足りない顔をされ、写真をやっていて本を出した事があるという話をするとようやく納得される。
本来であれば、夫の仕事は秘書に任せ、妻は自分のキャリアを積むべき仕事を、あるいは自発的に
自分の中から出てきたボランティアのような作業をするべきなのだ、そうする事によって、妻は
夫の影から抜け出して、初めて精神的な自立を得る事ができるはずだ、という認識が多いらしい。
男女は平等だし、夫婦も対等なのが良いと僕も思う。だけど、アメリカではその価値観が逆に
がっちりと人を縛っている事があるんだな、と思った。「自由な国」といってもいろいろあるんだ。

あと、人前で翻訳した作家の名前を挙げた時に、必ず女性から「男性作家ばかりなのは意図的な
ものなのか、なぜ女性作家の作品を翻訳しないのか」と質問されると書かれていて、四年前に
七靴君にいくつかの女性作家の小説の話をしたら「女性好きすぎだろ」と言われた事を思い出した。
僕も村上さん同様、男性女性を意識して読んだ事は無いし、結果的に女性作家の作品の話が
多くなってしまっただけだった。七靴君はこういう偏った見方をする事が多くて嫌いだったな。

運動靴を履いて床屋に行こう」では外国の床屋事情が語られている。ひどいカットが多いらしい。
その中で出会ったロンドンの、「他の床屋は頭を使っていない者が多いが自分にはそれができる、
日本人には日本人に向いたヘアカットがある事をわかっているから君はラッキーだよ」と言った
自信満々の床屋さんが、実際はかなりひどくてむちゃくちゃな仕上がりになった話が面白かった。
僕は15歳の時から十年以上同じ床屋さんで髪を切ってもらっているのだけど、毎回「前髪は長めに
残してください」と言っても短く切られてしまう事が多い。申し訳無いので、切られすぎた後に
「ちょっと短いですね」とも言えないし、よく家に帰った後に鏡を見てはため息をついている。
床屋さんと僕との間で「長い髪」の認識が違うのかとも思ったけど、年に2回くらいはちゃんと
長く残してもらえるので、結局よくわからない。正確に何センチと指定しないといけないのかな。
会話も気を遣いますよね。それについては村上朝日堂の逆襲」の感想で書いたので割愛。

さらばプリンストン」では、アメリカの引っ越し業者の話が。相当ひどいところが多いらしい。
家具がめちゃくちゃになったり荷物を紛失されたり、そもそも約束の日時に業者が来なかったり。
村上さんは「この三日のうちどれかに来るよ」と言われたらしい。三十年前だからだよね・・・?
ちなみに我が家が今の家に引っ越した際は、業者さんに頼まず、父が借りてきた大型トラックに
荷物や家具を積み込み、新しい家に運んだ。五往復はしたな。めちゃくちゃしんどかった・・・。
冷蔵庫は横にすると壊れる為、斜めにした状態で運ばないといけなかったのが一番つらかったな。
二度とやりたくない・・・。やっぱり高い費用がかかっても引っ越し業者さんに頼むのが一番です。

以上、他にも面白い話はいくつかあったけど、感想としては短くなるのでここには書きません。
読み始めた時はどうなる事やらと思ったけど、だんだん楽しんで読む事ができたので良かったです。
あと「ヒップな」という表現がたびたび登場して、「岡村靖幸だ!」と思いました。それではまた。

2019年7月20日 日出る国の工場 感想

はいこんばんはRM307です。読書回の今週は村上春樹のエッセイ「日出る国の工場」の感想。
読んだ気になっていたけど読むのは初めてだった。まだ読んでいない昔のエッセイがあったとは!
地元の図書館には置いてなかったので、存在を見落としていたようだ。内容は工場見学です。
(人体模型工場、結婚式場、消しゴム工場、農場、コム・デ・ギャルソン、CD工場、かつら工場)
僕も新卒で入った会社を退職して資格を取りに行く前の短い期間、パン工場で働いた事があったな。
あれは相当ひどい職場だった・・・いろいろ詳しく書きたかったけど、もうだいぶ忘れちゃったな。

日出(いず)る国の工場
村上 春樹
平凡社
1987-03-01


まずは京都の人体模型工場、ここでは彩色を熟練した職人が一つ一つ施している。営業の人は
そんなに凝らなくても、教育標本として足るものを作ってくれればそれでOKだと言うのだけど、
現場の職人は現場のプライドがあって、もしそんな事を言われたら逆に凝っちゃうものらしい。
僕は仕事は好きじゃないので、手を抜いて良いものなら抜いて楽をしちゃうだろうけど(無責任)、
もしFAでそんな事を言われたら、この職人のように意固地になっていつも以上に丁寧に描くと思う。
早く正確に彩色する研究をしている美術工芸部門に習いに行ったり、自分たちの技術を他人に
教えたがらない年配の職人たち。多くの職人がそうであるように、後継者不足が問題になっていた。
このエッセイが書かれたのは30年以上前の事だけど、今のこの部門はどうなっているのだろうな。
いろいろな人体模型(動物の模型もある)やその解説が書かれていて、わりと面白かったです。


次は結婚式場。これは工場では無いけど、結婚式を挙げる夫婦とブライダルプランナーの会話が
まるで工場を流れるベルトコンベアのようによどみ無く書かれている。ほとんど感情が含まれず、
料理のコースや衣装、招待状の枚数まで細かく打ち合わせていくのだけど、これが結構面白い。
以前も何度か書いたけど、「エルマーの冒険」でエルマーが家を出る前に旅支度をするシーンで、
所持品を一つ一つ羅列していく部分がなぜかとても好きなので、この会話もなかなか楽しめた。
まぁ僕は華美な披露宴を鼻で笑う性格の悪い人間なので、「貧弱なのは嫌だから高いコースで」
とか「みんなやっているなら」という理由で無駄に浪費している様子には呆れちゃうんだけど。
そんな価値を見出している訳でも無い、見栄を張る為だけの選び方ってくだらなくないですか?
少なくとも僕は巻き込まれたくないなと思った。まぁどうせ結婚式を挙げる事は無いんですけど。
そういう意味では、つばき先生の結婚式の準備やプレゼントを自分たちで作った話は良かったな。
以前もお伝えしたけど、あのエピソードはブログとかに書いてみんなで共有できた方が良いと思う。
ちなみにこのエッセイに書かれている夫婦の婚礼費用は270万円。へー。まぁ何も言いませんが。


次は消しゴム工場だけど、これは読んでいて面白くなかった。村上さんも同行した編集者さんも
工場の仕組みがわからず真っ青になっていたからかもしれない。混乱している様子がよくわかった。
担当者に説明された編集者さんの「しくしく」というセリフが繰り返されているのは面白かったなw


次に小岩井農場。小岩井は小岩井さんがやっている訳では無く、小野さんと岩崎さんと井上さん
という明治時代の名士が集まって作ったからこの名前になったんだね。ぜんぜん知らなかったな。
主に乳牛についてのお話。僕は数年前まで、乳牛というのは常に母乳が出るものだと思っていた。
でも実際は牝牛に妊娠・出産を繰り返させ、常に母乳が出る状態にしているのだと知って驚いた。
よくよく考えれば当たり前なんだけど、まったく考えもしなかったな・・・。かなり残酷なんだ。
乳の採取は五、六産までで、ピークに達した十歳前後で処分されるそうだ。種牛も同様に十歳。
そもそも牡牛のホルスタインの場合は、生後20ヶ月程度で肉牛として処分されるとの事だった。
その種牛も、毎日違う牝牛と交尾させられるイメージだったけど、実際は「擬牝台」と呼ばれる
牛用のダッチワイフと行為をさせ、精液を採取するのだという。な、何という人(牛)生・・・。

農場の人からはホルスタイン牛は「経済動物」と呼ばれている。効率的に乳を出す為だけに存在し、
その目的にかげりが生じたら処分され、加工肉用になる。牧場だって「資本投下=回収」という
原理によって進行している一つの経済体に過ぎない、牛はただ原料の役割と果たしているだけで、
原料さえと思わなくなってしまったら原理そのものが揺らいでしまう事になる、と書かれている。
村上さんのように僕も農場には牧歌的なイメージを持っていたけど、実際はシビアだった・・・。
僕はわりと生き物(虫とかはアレだけど)が好きなので、こういう仕事はできないだろうな・・・。
でも「残酷」とも書いたけど、そのおかげで僕は生きていられるのだ・・・。人間は罪な生き物だ。
あと僕は牝牛しか知らなかったけど、ホルスタインの牡牛ってかなり大きいんだね。びっくりした。


服飾メーカー「コム・デ・ギャルソン」の工場は自社のものでは無く、委託している小さな町工場。
気の良い職人さんやその家族がいっしょになって丁寧に作っている様子が伝わってきて良かった。
作業をしながらデザイナーの意図を発見できたり、どんなものになるか楽しめたりしているようだ。
刺激を楽しめる人はそういう仕事は良いだろうなぁ。僕なんかはルーティンワークで良いんだけど。

あと興味深かったのは、「80年代後半を動かす新しい理念の多くは、60年代に見受けられた理念に
その源を発しているのでは無いか」という話。水面下で進行していたものの表出と時を同じくして、
「60年代世代がそれを商品化する権限を持った地位にのしあがっていた」という。なるほど面白い!
ちょっと話が違うかもしれないけど、最近のポケモンの「メガシンカ」を思い出した。発売当時
ポケモンをプレイしていて、「僕の考えた最強のポケモン」を描いていた子どもたちが大人になり、
開発する側になった事で実現した新しい概念。たぶんその他にもそういう流れは多いのだろうな。


次はCD工場。ここではCDを知らない人に対してCDとは何かという説明が書かれている。今でこそ
当たり前の存在で誰も疑問を抱かないけど、当時はまだそういうレベルだったんだな・・・!
ただ「当たり前」と書いたけど、僕にその原理を説明する事はできない。知らないのと同じだな。
CDはその表面のミクロの凹凸をレーザーで読み取る。わかりやすくすると、野球場の砂一粒一粒を
読み取るのと同じだという。そんなにすごい事をやっていたのか・・・!しかも30年以上前から!
自分の生まれる前の事って教科書レベルの大昔に感じてしまうから、こういう時とても不思議だ。
当時からそんな技術があったんだ、技術者さんってすごいね・・・なんて言うと怒られるだろうか?

あとここでは村上さんのインタビュー観についても書かれていた。相手に従うままの小学生の
見学では記事は書けない、相手の邪魔をしたり迷惑をかけたりするぐらいじゃないと状況の芯が
見えてこないというところもあるので、相手が気を悪くするような質問もわざとしてみる事もある、
わからないところは根掘り葉掘り何度も訊く、見たいところは時間をかけてじっくり細かく見る、
しゃべりたがらない事も挑発してしゃべらせるとの事だった。なるほど、これも真摯な姿勢だ。
僕も2回作者さんへのインタビューをした事があるけど、こんなに突っ込む事はできなかったな。
まぁ僕は本業じゃないので良いんだけど。いや、つばき先生には結構踏み込んだ質問をしたか。


最後はかつら工場。この工場が「ねじまき鳥クロニクル」の笠原メイが働いていた場所らしい
(Wikipediaより)。なので読めて良かったです。読んでいてメイからの手紙を思い出しました。
興味深かったのが、アデランスではまずカウンセリングをするという話。かつらをつける事への
罪悪感・抵抗感を消す、他人を欺く事では無くて自分の意識をリフトアップする為の作業なのだ、
という事を納得させるのだという。アフターケアも含めて、きめ細かいサービスをするのだなぁ。
僕の父も祖父も禿げていたので、僕もいつか禿げるのかなぁ、嫌だなぁ・・・と思いながら読んだ。
母方の祖父のようにかつらをつけたいけど、めんどくさがりなので結局つけない気もする。高いし。
祖父もかつらをつけていて、いろいろと苦労したのだろうか。もう訊く事はできなくなった。


以上、あまり書く事が無いかなと思ったけど3000字か。まぁ内容の解説がほとんどだったけど。
普通のエッセイの方が好きだけど、これはこれで楽しめたので良かったです。それではまた。

2019年7月6日 ランゲルハンス島の午後 感想

はいこんばんはRM307です。今週は村上春樹のエッセイ「ランゲルハンス島の午後」の感想。
読むのは2、3回目かな?1編2ページで、112ページのうち半分以上は安西水丸さんのイラストです。

みんなで地図を描こう」では、村上さんが他人に場所を教える時に地図を描くのが好きという
お話。書道教室みたいに「地図描き教室」があっても良い、そこで学んだ生徒が会社に入って
地図を描く時に他の人に頼まれるところを想像するとココロがなごむ、という話が書かれている。
このエッセイが書かれたのは1984年。ネットで簡単に地図を参照できる今となっては、もう地図を
描いて説明する場面はほとんど無くなってしまったかもしれないな・・・!そう考えると寂しい。
まぁでもPCやスマホを使わない子どもや高齢者の間ではまだまだ使われているかもしれないな。
自分のはおいといて、子どもの描く自分の街の地図って可愛くて良いですよね。結構好きです。
絵本などに載っている知らない街、架空の街の地図を見るのも好きだったような記憶がある。
村上さんのように実用的な場面では役立たないけど、僕は小学生の頃は架空の街の地図を描いて
ミニカーを走らせたり、中学生の頃はファンタジーな世界地図を描いて妄想したりしていました。
そういうの通ってきた人はきっと多いんじゃないかと思うんだけど、みなさんはどうでしたか?

ONE STEP DOWN」では、名前をつけるのが好きな話。昔ジャズ喫茶をされていた時、
お店の名前「ピーター・キャット」は当時飼っていた猫から名づけたのだという。そうなんだ!
ピーターなんてハイカラな名前ですね。そして「カンガルー日和」も次店舗の候補だったという。
これは結局短編集のタイトルに流用されました。この名前にはそういう経緯があったんだなぁ。
そしてタイトルの「ONE STEP DOWN」はアメリカで出会ったジャズ喫茶の名前で、どういう意味か
気になってドアを開けたら店の中が一段低い作りになっていたという。村上さんはころんだらしいw
文中にもある通り、たしかに店名にするんじゃなくて注意書きを貼っておいて欲しいな・・・w
僕は以前新ブログでも書いた通り、名前をつけるのが得意では無い。タイトルは何かのパロディ
だったり曲名だったり、登場人物は実在の声優名だったりする。別に思いつかないのでは無く、
何となく恥ずかしいから。たぶん「これには元ネタがあるから」と言って逃げられるからだろうな。
七靴君に、自分で考えたものを馬鹿にされたり笑われたりするのが嫌だったのも理由みたいだ。
彼には僕の絵も漫画も考えも行動もずいぶんとこき下ろされました。かなり自己否定が進んだ。

洗面所の中の悪夢」では、日常生活でぼーっとして変な間違いをしてしまう村上さんのお話。
他のエッセイでも書かれていたけど、トイレに行こうと思ってシャワーを浴びてしまったり
(そして尿意がある事に疑問を感じるまでがセット)、ヘアブラシに歯磨きををつけて歯を磨いて
しまったりする事も日常茶飯事、そして歯ブラシにシャンプーをつけてしまった事もあるという。
うん、僕も洗濯物を誤ってごみ箱に放り込んで「あれ?洗濯物が無いな」と探す事があったり
するけど、村上さんほどひどくはないかな!お仕事ではアホなヘマをやらかしたりするけどね。
ヘマの他にも「あの作業をしよう」と思った30秒後には忘れていて、後から思い出す事が多い。
マジで記憶力が無い。十代の頃はちゃんと覚えていててきばき行動していたんだけどな・・・。

ときどきどうして、どういう理由で、どういう経過でそのような癖が猫の頭に生じるのだろうと真剣に考えてみることがある。猫には猫なりの幼児体験があり、青春期の熱い思いがあり、挫折があり、葛藤があったのだろうか?
村上さんが今までに飼った猫の変わった行動や癖などについて書かれた「猫の謎」から引用。
僕もよくうちの猫を見ながら不思議に思う事が多い。人間が同じように育ってもまったく異なる
人間になるように、猫も猫の数だけ性向がある。うちの猫もみんなそれぞれ違ったタイプだった。
以前も書いたかもしれないけど、昔我が家では三つ子の犬も飼っていた(犬の場合は単なる姉妹?)
その子たちもみんな性格が違ったな。臆病な長女、強気な次女、大人しい三女。面白いなぁ。
猫の話で思い出したけど、先日没先生が描かれていたこの漫画の猫の起こし方が良かった。
ご主人を起こす為にこの行動に至った猫、めちゃくちゃ可愛い・・・僕も起こされたい・・・。
今うちで飼っている二匹の猫は声だけで起こそうとするけど、昔飼っていて17歳まで生きた猫は、
自分がふとんの中に入りたい時などは家族の顔を前脚でちょちょいとひっかいて起こしていた。
朝起きて鏡を見ると何本かひっかき傷ができているんだよねwみんな仕方無いなぁと笑っていた。
今思うとそんなに強くひっかかなくても良いような気もするけど、まぁ猫のやる事は可愛いのだ。

ニュースと時報」では、昔ラジオで「7時をお知らせします、失礼しました、8時を・・・いえ、
9時をお知らせします」と間違えたアナウンサーが居て大笑いをした、というエピソードが。
こういうのを聴けたらとても良い気分になるだろうなぁ。もちろん他人の失敗を嘲笑うという
ネガティブな意味合いでは無く。言い間違えた本人やラジオ局としては困っちゃうんだけど、
聴いた人に笑顔と幸せを届けてくれるよね。こういうオアシス的な間違いはぜんぜんあって良い。
もしも今後AIなどが普及して、世の中の物事が完璧に運びすぎるとつまらないだろうな、と思う。

小確幸」には、「独身者を別にすれば自分のパンツを自分で選んで買う男性は周りに居ない」
と書かれていて驚いた。昔はそうだったという事?それとも今もそれが一般的なのだろうか。
先日つばき先生も、お風呂の後にパジャマを出す事についてツイートされていた気がする。
僕は自分で着るものは自分で選びたいなぁ。父も自分で着るものはすべて自分で買っていて、
それが当たり前だと思っていたな。ちなみにここでうちの父の下着事情についてばらすと、
単車乗りだった父は以前バイクで事故をした際に下着を見られて恥ずかしかったという経験から、
それ以降は常におしゃれな下着を履くようになっていた。僕はそっちの方が恥ずかしいけどなw

八月のクリスマス」では、毎年クリスマス・レコードを買わずに後悔していた村上さんが、
八月のバーゲンでまとめて購入したらお店の人に「メリークリスマス」と言われたエピソードが。
こういうのほっこりしますね。日本で言ったら怒るお客さんも居そうでちょっと怖いけど・・・。
お店の店員じゃなくても良いけど、僕もそういうユーモアを持って仕事をできる存在になりたい。

以上、やっぱり2ページの作品だと物足りないですね。次はまた長いエッセイかも。それではまた。

2019年6月15日 村上朝日堂 はいほー! 感想

はいこんばんはRM307です。今回は村上春樹のエッセイ「村上朝日堂 はいほー!」の感想。
読むのは3回目?エッセイは出版した順に読むつもりだったけど、勘違いでこれを借りてしまった。
まぁでも内容を書かれたのは前回のエッセイとわりと近い時期だったので、結果オーライでした。




わり食う山羊座」では、山羊座の血液型A型の占いがいつも芳しくないという話が書かれていて、
「星占いページの担当ライターは山羊座のA型の悪口を書くのを唯一の楽しみにしてやっている
としか僕には思えない」という部分が面白かった。A型について人々が好意的でないのはわかる。
僕もA型なのだけど、昔からよく几帳面だの神経質だの言われてきて、いつも嫌な思いをしていた。
日本にはあまりにも血液型占い信仰が蔓延している。その所為で僕の中にもすっかり刷り込まれて
しまったように思う。血液型が性格を築いたのでは無く、その信仰がねじ曲げてしまったのだな。

これはもちろん個人的な好みの問題だとは思うが、アーネスト・ヘミングウェイみたいに戦争が起こるたびに外国に飛び出していったり、アフリカの山にのぼったり、カリブ海でおおかじきを釣ったりして、それを小説のネタにするようなやり方はあまり僕の好むところではない。そういうのはテレビの「なんとかスペシャル」と根本的には発想が同じじゃないかと思う。そういう風に物を書いていると、だんだんエスカレートして不自然にネタを求めるようになってくる。
チャンドラー式」から引用。僕はまったく観ていないけど、テレビやYouTuberがやっているのも
こういう事じゃない?より過激なものをと拍車をかける視聴者が多いのも問題なのだろうけど。
僕もこのブログを更新する為に本を読んだり料理を作ったりしているのでとやかく言えないけど、
書く為にネタを仕入れるんじゃなくてネタがあるから書く、というのが本来のかたちだとも思う。

日本長期信用銀行のカルチャー・ショック」では、フィクションとノン・フィクションの二つは
まったく別の作業で、ノン・フィクションは現実をフィクショナイズする事、フィクションは虚構を
現実化する事だと書かれている。ああたしかにそんな感じがする!と目から鱗。僕が今まで
ノン・フィクションだと思っていたものはドキュメンタリーだ。ノン・フィクションとは違うのだな。

しかし我々はあまりにも多くのものを求めたので、与えられるものの多くは結果的に類型に堕することになった。類型としての文化を撃つべきカウンター・カルチャーの類型化がおこなわれた。カウンター=カウンター・カルチャーが起こり、カウンター=カウンター=カウンター・カルチャーまでが起きることになった。
ジム・モリソンのための「ソウル・キッチン」』から引用。たしかにそういう事って多いよね。
僕の「百合少女交響曲♪」だってそうかもしれない。類型化された創作物に過ぎないのだろう。
まぁ僕の創作物はカウンター・カルチャーとか革命とか言えるようなものでは決して無いけど。

落下傘」で、村上さんの奥さんが映画を観るとよく「私にとってのこの映画の教訓はね・・・」
と説明を始め、「最初のうちはまったくなんだこの女はと思っていたのだが」と書かれていたのが
面白かったwでもいつしか村上さんご自身も映画から教訓を学ぶ癖がついてしまったのだというw

ひとり旅」では、一人旅をしている女性と出会った時に話しかけるべきか否か、という話が。
話しかけて相手に鬱陶しく感じられたり下心があると思われたりするのも嫌だし、かといって
話しかけずに「退屈しているのに、小心な男ね」と思われるのも嫌だと書かれているのだけど、
昔はそういう時代だったのかな?現代だったら突然話しかけたりしたらかなり警戒されそうだ。
少なくとも、僕は自分から一人旅をしている人に話しかけようとは思わないな・・・性別問わず。

「無人島に一冊本を持っていくなら何か」という質問に辞書と答えている「無人島の辞書」では、
小説家なら自分で話を書けるから得だ、と書かれている。退屈しのぎに官能小説的な文章を書いて
猿に読ませたりね、なんて書いてあるのだけど、その後外国の辞書を持っていくという話題で
もう一度このくだりが出てきて、今度は「フランス語で」と書かれているのが面白いwユーモア。
あと以前他のエッセイだか作品だかに出てきた「どんな髭剃りにもその哲学がある」という格言、
「どんな些細な事でも毎日続けていればそこにおのずと哲学が生じる」という意味なのだけど、
以前も書いたかもしれないけど僕にとってのFAやFAの紹介文がそれかもしれないな、と思った。
あと、村上さんがひげを剃る順番が僕と同じで嬉しかった。それとも一般的な順番なのかな?

ささやかな時計の死」でそういえば、と思ったのが、昔は時計のねじを巻くのが日常だった事。
ねじ巻きは生活の中にしっかりと食い込んだ日常的行為であり、昔はよく時計と目が合ったという。
たしかに電池式の前は手動だったか・・・。思えば僕の父は古い壁かけ式の大きな時計が好きで、
よくねじを巻いていたな。めちゃくちゃ久しぶりに思い出した。昔は大人も子どももねじを巻く事が
当たり前だったから、時計というものは故障した時ぐらいにしか止まらなかった訳か。でも
電池式になり、ある日突然針が止まるようになってしまった。最初は慣れなかっただろうなぁ。
目覚ましが鳴らずに遅刻してした人も多かったかもしれない。便利だけど、一長一短なのだなぁ。

どうして僕は雑誌の連載が苦手なのかということについて」では、せっかちな村上さんが
食後すぐに食器を片づけてしまうので、奥さんが食事の後くらい一息ついて何か話をしたいと
怒るという話が書かれている。これ、すごく羨ましいなぁ。以前パン屋再襲撃」の感想でも
書いたけど、今まで僕と話をしたいと言われた経験がほとんど無いので。僕も僕と話がしたいと
言われてみたいけど、何も無い空っぽな人間だから無理だろうな・・・。しかも村上さんの場合は
当時結婚して15年以上経つのに、まだそんなに仲が良いんだ!と驚いてしまう。良いなぁ・・・。
うちの両親の間には、子どもを挟んだ時ぐらいにしか会話が無かったような気がするので・・・。
父が母に一方的にモラハラをしていた記憶しか無い。世の中には仲の良い夫婦が居るのだな・・・。

CAN YOU SPEAK ENGRISH?」では、アメリカでフィッツジェラルドがモデルの芝居を見に行った
村上さんが、司会者に「フィッツジェラルドの翻訳をやっている村上さんがおいでになっています」
と紹介され、舞台上であいさつと観客からの質問に答えないといけない事になったエピソードが。
これはキツいなwただでさえ会話にも英会話にも苦手意識があるのに、ややこしい専門的な質問に
答えなくてはいけないなんて・・・!しかし村上さんは結構若い頃から翻訳をされていたんだな。
村上さんは何をしゃべったのか覚えていないらしい。実際どんな事を話したのだろう?気になるな。

『スペースシップ』号の光と影」は美しい流れのエッセイだった。村上さんが手に入れた
かなり古いシンプルなピンボール台、それを仕事終わりに黙々と打っていた時の親密な空気、
そして手放す事になり、ピンボール台が引き取られていく時の物哀しい光景、ずっしりとした重さ。
ちなみに「1973年のピンボール」を書いた後の事らしい。てっきり書く前の事だと思っていたな。

貧乏はどこに行ったのか?」では、たまに会う女の子が口をそろえて「貧乏は絶対に嫌だ」、
「結婚はしたいけど生活レベルは落としたくない」と言うけれど、昔はお金の事よりはまず
納得できる生き方をしたいという方が先にきていたと思うと書かれている。僕はその時代を
知らないけど、今はある程度お金がある事が前提になっている気はするな。まぁ偏見ですけど。


以上、字もそこそこ大きかったし、180ページほどで読みやすくて良かったです。それではまた。

2019年6月1日 村上朝日堂の逆襲 感想

はいこんばんはRM307です。今週は読書回、村上春樹のエッセイ「村上朝日堂の逆襲」の感想。
読むのはだいぶ久しぶり、たぶん3回目ぐらい。「村上朝日堂」と比べて1編が倍くらいあります。
村上さんが35~6歳頃に書かれた作品だけど、文章スタイルは今と変わらず読んでいて心地良い。

村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
1989-10-25


噂!」では、村上さんが秘密のペンネームを二つ持っていると書かれている。何それ気になる!
基本的に好きな作者さんの文章はすべて読みたいので、こっそり別名義を持っているというのは
非常に困るな!新都社でもそうなんだけど、だからといって全作品に目を通す事もできないし。
以前はよく、実はつばき先生も誰にも教えずにないしょで文芸に新作を投稿しているのでは無いか、
と考えて一人もだもだしていた。もしもそれを後から知ったらめちゃくちゃ後悔するだろうからね。
文章の場合は特に、隠された場合なかなか見つけ出す事はできないので悩ましいところです。
かといって漫画なら楽だという訳でも無く、昔一度おやゆび主任も別名義があると仰っていて、
誰にも特定されておらず、僕も結局見つけ出せないまま新都社を去ってしまわれた。残念だったな。
話が逸れましたが、村上さんの別名義の文章もぜひ読んでみたいですね・・・いつか教えて欲しい。

何故私は床屋が好きなのか」では、当時藤沢に住んでいた村上さんが、引っ越す前の行きつけの
千駄ヶ谷の床屋さんに三週間に一度、片道一時間半かけて切りに行っていた話が書かれている。
それは新しい床屋さんで髪型の細部に至る説明をするのが大変だから(それに説明したとしても
その通り切ってくれるとは限らないから)なのだけど、僕だったら往復三時間はかけたくないw
お金も時間ももったいないし。嫌でも引っ越し先の床屋さんと辛抱強く付き合っていくと思う。
でも髪型の注文にしろ会話にしろ、慣れている人の方がずっと楽で良いというのはよくわかる。
特に会話、一時間弱もの間、他人と一対一のコミュニケーションを取り続けるのはしんどいよね。
あれだけトーク力の高いラジオパーソナリティの鷲崎健さんも、散髪中は一言も発しないらしい。
僕は中学三年生の頃からずっと同じ人に切ってもらっているから、沈黙も苦痛では無いけれど、
もし引っ越したり別の理容店なり美容院なりに移る事になったりしたらと考えると気が重いな。
みなさんは理容師さんや美容師さんとどんな会話をされていますか?そういうの結構気になります。

オーディオ・スパゲティー」では、新発見や新発明に関する不思議について書かれている。
①ある必要があって、
②その必要を充たすための然るべき理論的考察なり試行錯誤なりがあって、
③発明なり発見なりに至る。
この①と③は何とか理解できても、②は難しすぎてよくわからないという話。具体的に書くと、
①映像をテープに簡単に録画できると便利である、
②ムニャムニャムニャ、
③ヴィデオ・レコーダーができた。
という事になる。たしかにわからない。あと最近よく考えていたのだけど、テレビなりPCなりで
収録された番組を観る、これって一種のタイムマシンだよね。過去の姿を今観られるなんて!
そして天気予報という技術は未来予知。どちらもすごい事だよなぁとしみじみ考えてしまう。
現時点では夢物語のような技術も、いつか当たり前のように存在するようになるのだろうか?
未来なんて暗い悪夢のようなものだけど、そういう部分では楽しみな部分もあったりします。

間違いについて」では、夜中にトイレに行こうとした村上さんが間違えてシャワーを浴びて、
その後「あれ、まだトイレに行きたいけど身体の具合がおかしいのかな」と不思議に思う事が
頻繁にあると書かれている。村上さんでもそういう事があるんだなぁ。僕だけじゃないんだ!
僕もよく「あれをしよう」と思って30秒後には何をするつもりだったか忘れてしまったり、
何かを数えている時に話しかけられ、数がわからなくなり最初から数え直したりする事が
しょっちゅうある。まぁ後者は間違いとは違うんだけど、残念な脳をしているという話です。
これは軽めのエピソードだけど、みなさんが引くような間違いもたくさんあるのですよ・・・。

不用物の集積について」では、使わないのにボールペンが大量にあり、でもまだ書けるので
捨てるに捨てられないというエピソードが。たしかつばき先生のだんなさんもそういう物は
捨てずに取っておくと仰っていたような気がする。僕もそういう精神はとてもよくわかると思う。
まぁ僕の場合は身体の芯から貧乏性が染みついているだけなんだけど。でももったいないよね。
僕は以前断捨離をしたのだけど、その数年後に「あれが必要だけどたしかどこかにあったよな」
と思って探したら、断捨離の際に処分した事を思い出してがっかりした、という事があったので、
それ以来なかなか思い切って物を捨てられなくなっている。まぁそのほとんどは不要なんだけど。
ちなみに本はたまにネットで古本屋に買い取ってもらっている。大した額にはならない無いけど。

「うずりゆく」号の悲劇』では、識者から有用なパンフレットを送ってもらって勇気づけられた
村上さんが、お礼状を書こうと思っていたけどずるずると先延ばしにしていたら四年経っていた、
と書かれていて驚いた。そういうのってもし感謝していたら必ず送るものでは無いのだろうか?
僕は相手に送らないと気持ち悪いし、いつまでも引っかかってもやもやしてしまうのだけど。
僕と違ってプロ作家の村上さんなら、何を書いて良いかわからない訳では無いだろうし・・・。
お返事が無い時、僕だったら「お返事をしたくない何かがあるのでは無いか」と考えてしまう。
たとえばFAや長文感想なら、それ自体に何か問題があったり、含むところがあるから返信には
至らないだと思う。もちろん感謝して当然だと言いたい訳では無いんです。ただ、僕の中では
感謝=返信は当たり前のように同時に存在しているものなので、感謝はしていても返信はしない、
という事が上手く理解できないのだ。相手がその時多忙だったりしたらぜんぜんわかるんだけど。
(最初から返信しないスタイルの作者さんは除く。以前は返信されていた作者さんが対象です)
理解できないので、返信が無い場合はこちらに落ち度があったと考えるのは当然の帰結になる。
繰り返すけど、FAや感想には返信、感謝するべきだと思っている訳では無いのです。伝わるかな?
こないだ某所でいただいたコメントでは、いまいち伝わっている自信が無かったのだけど・・・。

グッド・ハウスキーピング」は、村上さんが若い頃に半年間だけ主夫をされていたエピソード。
こうしてみると世間一般では「主婦的」と考えられている属性のうちの多くのものは決して「女性的」ということと同義ではないように僕には思える。つまり女の人が年をとる過程でごく自然に主婦的な属性を身につけていくわけではなく、それはただ単に「主婦」という役割から生じている傾向・性向にすぎないのではないかということである。だから男が主婦の役割をひきうければ、彼は当然のことながら多かれ少なかれ「主婦的」になっていくはずである。
この部分で、以前つばき先生がリツイートされていたこの漫画を思い出した。性差では無く役割。
https://www.gentosha.jp/article/12204/(現在は有料記事になっているみたいです)
僕も母よりも洗濯物の干し方に細かくてこだわりがあるけど、これも役割の話なのかもしれない。

山口昌弘さんという知人について書かれている「山口下田丸くんのこと」で面白かったのは、
村上さんのジャズバーで働いていた時は駄目だった山口昌弘さんが周りから褒められていたので、
そこで先日ためしに山口昌弘に引っ越しを手伝ってもらったのだが、やはりぜんぜん役に立たなかった。十年前とちっとも変わっていない。そしてやはり僕の判断が間違っていなかったことが証明された。
と実証しちゃったところがおかしかった。最後の一文が良いですねwひどいけど結構好きです。
その後にちゃんと「しかしもちろん山口昌弘は悪い男ではない。」とフォローもされていますw

久しぶりに千葉から東京に住む事になった「バビロン再訪」では、専業作家になる前の人々が
仕事を終えて家族も寝た夜中の台所で小説を書く「キッチン・テーブル作家」についての記述が。
その中で、「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」にも少し触れられている。この作品の時は
一日に1、2時間しか書く時間が無かったので、断片の寄せ集めのような小説になったとの事。
たしかにこの二作と専業作家になってから書かれた「羊をめぐる冒険」は大きく違うように思った。
初期の作品から感じた違和感はそれか。そういう生活環境も作品に大きく影響していたのだな!

13日の仏滅」では、結婚前に占い師から「これはひどい組み合わせですね」と言われた話が。
その後に「結婚してみてから本当にひどい組み合わせだということが判明したわけだが」と
書かれているのが面白いwでもそれで結局四十年以上いっしょに生活しているのだからすごい。
他人と何十年も共に仲良く暮らせるなんて・・・。あと、最後の方のこの部分も好きだった。
僕は個人的にはあえて仏滅に結婚式をあげるようなタイプの人々を好んでいる。「仏滅だろうが何だろうが俺たちはうまくやるんだ」という信念があれば何だってうまく行くはずだ――という気がする。責任は持てませんけど。

趣味の禁煙」に書かれている、村上さんの禁煙のノウハウについてのこの部分も面白かった。
こっちは辛い思いをして禁煙しているのだから、何もおとなしく良い子にしている必要はない。普段は言えないようなことも禁煙のイライラを利用してどんどん言っちゃうのがいちばんである。(中略)人と人のつきあいというのはそれくらいのスリルがないことには面白くもなんともない。
禁煙しているのは本人の問題であって、他人は関係無いじゃないかw当たられた方は損だよw
何ともひどい話のような気もするけど、でも村上さんは奥さんに当たったりはしないからえらい。

雑誌の楽しみ方」に書かれている、多くの似たり寄ったりの雑誌が出版されている状況での、
「いったい誰に午後四時半の薄闇と午後四時三十五分の薄闇を区別することができるだろう?」
という部分もクールな表現で良いな。僕ももし機会があったら漫画の中とかで引用しようっと。

以上、内容を忘れていた部分も結構多く、なかなか楽しめたので良かったです。それではまた。

2019年5月11日 村上朝日堂 感想

はいこんばんはRM307です。今週は読書回、今回は村上春樹のエッセイ「村上朝日堂」の感想。
読むのはたぶん五年ぶりで3、4回目。一つの話につき2ページという事もあり、書く事が少ない。
エッセイも短すぎるものより、やっぱりある程度ページ数があった方が楽しめるし書きやすいな。

村上朝日堂 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
1987-02-27


蟻について(1)」は、巣穴を掘る蟻が掘った砂を穴の入り口から遠くに捨てに行く話で、
中には穴の入り口の横にぺっと捨ててしまう蟻も居ると語られている。それについて村上さんが
でも考えてみれば、誰も彼もが砂粒を遠くまで運んでいかなきゃいけないということはないわけで、まんべんなく砂をばらまくという観点から見れば、入口の近くにひょいと砂を捨てていくのがいてもちっとも構わないのである。
と書かれていて面白かった。たしかにそうだwでも蟻はそこまで考えて捨てているのだろうかw
よく不思議に思うけど、あんなに小さな身体の中に複雑な巣穴を把握したり道を覚えていたりする
能力が備わっているなんてすごいですよね。まさに生命の神秘。小さくても計り知れないなぁ。

とかげの話」では、とかげについて「よく見ているとちょっとシャイなところもあって」と
書かれている。たしかに可愛いけど、どのへんがシャイな感じなのだろうwこちらも面白い意見。
ちなみに、しっぽの切れたとかげは仲間内からいじめられる、縄張りも半分に減らされてしまうと
科学雑誌に書いてあったとあるけど、検索したところ、そもそもとかげは群れて行動しないし、
そこまでの高度な知能は無い、という意見もあった。どちらが正しいのだろう?少し気になる。

略語について(2)」では、社会が複雑化・多様化した事でわからない略語が増えたとある。
その中で「アメリカン・グラフィティ」という映画に登場する略語の話について書かれている。
I・D・なしにお酒を買いにいくシーンがある。テリー君は通りがかりのおじさんに「僕実はこのあいだ洪水でI・D・を失くしちゃいまして……」と言ってかわりにお酒を買ってくれるように頼むわけだが、おじさんがそれに答えていわく「そりゃ気の毒にね、俺も女房を失くしたんだ。でも名前はアイディーてんじゃないけどさ」。
これはたしかに面白いですねw今では当たり前だけど、「ID」が通用しない時代もあったのだな!

あとこのエッセイのイラストが安西水丸さんなのだけど、巻末には逆に村上さんがイラストを、
水丸さんがエッセイを書かれたおまけも載っている。水丸さんの文章もなかなか読みやすかった。


以上、引用が多くて感想は少なかったですね。書く事は無いけどいちおうどれも面白かったです。
小説を読んでインプットする体力と意欲が無いので、次回もまたエッセイかも。それではまた。

2019年4月20日 斜陽 感想

はいこんばんはRM307です。今週は小説の読書回。今回は太宰治作の「斜陽」の感想を。
先日読んだ「人間失格」がわりと良かったので、他の著作も読んでみようと思ったのだった。

斜陽 (新潮文庫)
太宰 治
新潮社
2003-05

【あらすじ】
第二次世界大戦後、没落した貴族の一家の、日が落ちるように滅びゆくさまが描かれる。

えー正直に感想を述べると、この作品の良さをまったく理解する事ができませんでした・・・。
読むのがとにかく苦痛で、160ページちょっとしか無いのに一週間かけてようやく読み切った。
まずわからない事だらけで、どうしてかず子が上原の事を好きになったのか読み取れなかった。
直治が恋をしていた洋画家の奥さんの事もそうだけど、登場人物のモノローグ、手記などで
前振りや伏線も無く突然語られるので、そんな唐突に言われても・・・と受け止めきれなかった。
(いや、直治が恋をしていた奥さんというのは上原の奥さんの事だったのかもしれないけど)
ただ、最後に上原の子を身籠ったかず子が「この子とともに古い道徳と戦っていく」と決めた
ラストは良いなと思った。母や直治は死んでしまったけど、かず子まで死ななくて良かったな。

自殺した直治の残した遺書で、遊んでばかりいる彼にも彼の苦しみがあり、決して快楽に溺れて
遊んでいた訳では無く、「貴族」というくびきから逃れる為に必死で民衆に混じろうとしていた、
という事がわかるけど、だからといって同情して好感を持てるようなキャラでは無いな・・・。
母が亡くなる直前、叔父に貧乏だからお偉方を呼び寄せる力は無いと言われたも同然だと言って
直治が叔父をケチだと罵るのだけど、その叔父から援助を受けているのにケチ呼ばわり・・・?
仮にも遊び回っている自分がそれを言うの・・・?だったら自分が働けば良いんじゃない・・・?
と思ってしまった。遺書にも「人にたかる事ができない、上原と遊んでも自分の勘定は自分で
出していた、他人の仕事で得た金で飲み食いしたり女を抱いたりなんておそろしくてできない」
と書かれていたけど、家族の金目の物を持ち出しては売り払って、それで得たお金だったのに
ずいぶんえらそうだな、他人にたかるのは駄目でもそれは良いんだ、と冷めた目で見てしまった。
かず子も、「本当の地獄がはじまった」と独白していたけど結局今までの暮らしは続けていたし、
自分が病に罹っていた訳でも誰かに虐げられたりするような事も無く、そこまで言うほどなの?
どのへんが地獄だったのだろう?と首を傾げた。戦後、もっと苦しい人はたくさん居ただろうし。
まぁ僕だって現代の日本という恵まれた環境で暮らしているし、他人を責められないんだけど。

まぁでも直治の手記や遺書の文章にも少しは良いところはあったので、一部を引用しておきます。
僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。
あと良いところといえば、かず子が火の不始末から火事を出したところ、村人たちが飛び起きて
かけつけてくれて消火にあたったシーン。なるほど、昔は人々が団結していたのだなぁと思った。
別に現代人が冷たいと言いたい訳では無いんだけどね。そういう団結力は昔の方があったのかも。


以上、純文学を理解できない貧しいココロを持った人間が読むとこうなる、という一例でした。
人間失格」の感想は4000字近くあったけど、今回はその四分の一しか無かったですね・・・。
ホント苦行だったので、次はまた村上さんのエッセイでも読もうかな・・・。それではまた。

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